映画と夢は相性がいい。映画自身も夢を描写してきたし、鑑賞者の側も精神分析などを用いて、夢を分析するように映画を解釈してきた。しかも、この「夢」には、睡眠時に見る夢と、願望の投影である夢との両方の意味が託されている。テクノロジーによる芸術であり、同時に大衆娯楽でもあるが故に、映画は資本主義の欲望と併走し続けるという宿命を負わされてきた。全米興行収入二位の記録を更新した『ダークナイト』(2008)の監督、クリストファー・ノーランもまた、その映画の持つ宿命と格闘せざるを得ない監督であるようだ。

 新作『インセプション』は夢を主題にした映画である。簡単に物語を紹介しよう。この作品世界では、夢に侵入する装置が開発されている。主人公コブ(レオナルド・ディカプリオ)は、相手の脳内からアイデアを盗む産業スパイだが、サイトー(渡辺謙)の夢に侵入して失敗し、逆にサイトーの依頼でライバル企業に「インセプション」をさせられることになる。インセプションとは「植え付け」のことであり、アイデアや観念を相手の頭の中に吹き込み、それを頭から離れなくさせることである。それは具体的には、サイトーのライバル会社の次期社長であるロバートに、「自分の道を歩め」と、エディプス・コンプレックスを刺激するメッセージを植え付け、巨大なコングロマリットとなった会社を「自発的に」分割させることである。

 その物語と並行して、主人公コブの深層意識にあるトラウマの問題が語られる。本作の夢は、複数の人間の夢が混合しているので、コブのトラウマを解決しないことにはミッションが成功しない。コブには妻を失ったトラウマがあり、夢の世界で彼女と暮らすことに惹かれている部分がある。このトラウマを象徴する形象が「列車」である。かつて、夢の世界で長い年月を過ごした妻のモルは、「現実」に帰ろうとしなかった。そこでコブは、彼女に「ここは現実ではない」とインセプションすることによって、現実に戻らせた。作品における夢の世界は、夢の中の夢、そのまた中の夢と多重化が可能な構造になっており、コブと妻は、列車に轢かれて自殺することによって一段階上の階層に移動したことが示されている。だが「ここは現実ではない」というインセプションは、「現実」の家族のところに戻ってからも妻に効果を発揮し続ける。そして妻は、「真の現実」に帰るために、飛び降り自殺をしてしまうのだ。これがコブのトラウマになっている。

 さて、この物語、どこかで観たような気がするのは、僕だけではないだろう。「現実」が「現実」でなかったり、多重化したリアリティが存在する物語は、ノーラン自身も影響を認めている『ダークシティ』(1998)『13F』(1999)『トータル・リコール』(1990)などのテーマと同じである(「クリストファー・ノーラン・インタヴュウ」『SFマガジン』2010年9月号)。さらに、夢の世界の深層(この映画内部では、夢は何段階もの階層になっている)によって、トラウマを解消する物語は、典型的な精神分析の形になっている。夢の中に何度も妻が出てきて邪魔をするところは北野武の『TAKESHIS‘』(2005)のようでもあるが、最も顕著に影響を及ぼしているのはクローネンバーグなのではないだろうか。麻薬によって現実か夢か分からなくなった世界を彷徨い、かつて射殺した妻の亡霊に常に脅かされる、バロウズ原作の『裸のランチ』(1991)や、脊髄にゲーム装置を装着して複数の人間が仮想現実に入る『イグジステンズ』(1999)の影響が大である。特に、『イグジステンズ』は、「現実だと思ったらそこもまたゲーム」だというどんでん返しの仕掛けがある点においても、本作への影響が大である。(その『イグジステンズ』はフィリップ・K・ディックの「パーキー・パッドの日々」へのオマージュである)

 とはいえ、特にクローネンバーグや北野武などと比較した場合、あるいはフェリーニなどと比較した場合、この映画に出てくる「夢」はあまりにも構造的だ。夢が、基本的には「都市」あるいは「建築」なのだ。『イグジステンズ』の場合は、ぬるぬるねちょねちょした気持ち悪い世界が「深層」に広がっている。さらに、映画のカットが変わることで夢の中に移行するという演出により、いつ階層が移動したのかがわからないシステムになっていた。このような映画の規則を使った「階層移動の混乱」を用いている点で、クローネンバーグの方が才があるだろう。『インセプション』における夢への移動は、あまりにも説明的すぎるのだ。さらに、クローネンバーグはお得意のエロティックな「内臓感覚」の演出により、ゲーム機が生物であったり、肉体の中に物体が入ったりと、触覚などの視覚以外の感覚を揺さぶる演出が多い。それに対し、『インセプション』はあまりに視覚的である。視覚的であり、かつ、古典的な遠近法的な構図や場所を多く用いている。夢の中がエロティックな場所というよりは、理性による均整の取れた場所であるという印象の方が強い。 

 さらに、ギャグや笑いの要素がほとんどないことも特記すべきである。『TAKESHIS‘』では、夢的な世界の中で支離滅裂なギャグなのかどうか不明なものが連発する。それと比べて、『インセプション』の夢は、どこまで深層に下りても現実のようだし、銃撃戦が起きている「ハリウッド映画」のような夢でしかない。一般的な精神分析理論において「深層」に存在するとされる神話的類型や記号の戯れとは明らかに異質の「夢」描写をしているのだ。これらの「夢」の特性は、この映画を理解する上で重要な点である。  

 フロイトの考えによれば、夢=無意識の世界は、言葉遊びや類似性の原理で動いている。「変形」などの作用によって、直接現しにくいものが現れる。それに対し、『インセプション』の夢には、この要素がほとんどない。例えば『不思議の国のアリス』なら現れるような、遊びやナンセンスがほとんど登場しない。しかし、これは単にユーモアがないだけなのか。それとも精神分析理論を意図的に無視したのだろうか。この夢の描写の「生真面目さ」こそがこの作品の肝である。

 『インセプション』に登場する夢の階層を確認してみよう。まずロバートと一緒に飛行機に乗っている、「現実」の層。ここを第一層と仮に呼ぶ。そしてロバートの夢の中。ここはニューヨークのような都市であり、車による銃撃戦が起こる。これを第二層と呼ぶ。そして第三層は、ホテルの中である。そして第四層は、ジャッキー・チェン出演の『ファイナル・プロジェクト』(1996)やテレビゲーム『メタルギア ソリッド』(2001)を思わせる、雪山の中の要塞基地。ここまで、全ての階層で「潜在意識」は銃撃してくる「人間」として現れる。そして夢は「アーキテクト」と呼ばれる人物が「設計」していることになっている。一瞥して分かるのは、全て「建築的」夢なのだ。水や雪も登場するが、基本的には建物ばかりが強調されている。そして第五層に至ると、「建築」的意図は明瞭になる。沢山のビルが立ち並ぶグリッド的な世界だが、そのビルは次々と倒壊している廃墟なのだ。

 『マトリックス』(1999)を意識したという本作の「夢」の意図は明らかだろう。「アーキテクト」(建築家)とは、『マトリックス レボリューションズ』(2003)において、ボードリヤールの概念、高度資本主義=ハイパーリアルのメタファーとしての「マトリックス世界」を設計した人物のことである。最近では、インターネットの設計を行う人間のことも指す。つまり、夢の中が「言葉の戯れ」などではなく、きちんと設計されているのだ。この世界における夢は、かなりコンピュータ的な仮想現実と重ねあわされている。とはいえ、映画と夢と仮想現実を重ね合わせること自体は別に珍しくもなんともない。それどころか、どこか映画内の「ゲームの規則」についての混乱を招く印象が強い。

 第五層には失われた妻がいる。そして彼女と一緒にこの世界に留まるという選択も残っている。だが、少女アリアドネ(ギリシャ神話に出てくる、巻糸で迷宮からの出口を指し示す少女。その他の登場人物もアーサー王などの神話的モチーフから採られている)の否定によって、主人公コブは現実に戻ることを選択する。このこと自体だけを見れば、『ラブプラス』などのように仮想現実の恋人と耽溺する「セカイ系」的自閉世界を捨て「現実に帰れ」というメッセージを発しているかのように見える。冒頭が日本から始まるのも、そういう意図に見えなくもない。そして物語は、インセプションに成功し、家族と再会し、「現実」を生きることにしたコブの「トラウマの乗り越え」というハッピーエンドを迎える、かに見えるが、そうではない。この作品では「現実」の層にいることを確認するために独楽が使われていた。それが倒れれば現実である。だがこの映画の結末で、独楽は、倒れそうで、倒れない。「現実ではないかも」という疑いに観客を誘うのだ。

 確かに、ハッピーエンドとして解釈しようとすれば、不整合な点が多く見つかる。例えば冒頭でコブは海岸に打ち上げられ、年老いたサイトーと会い、物語はそのまま進んでいくのだが、なぜかそのシーンと同じシーンが後半にも現れる。単線的な時間ではこのようなことは絶対に起こりえないのだ。ノーランは映像や技法での冒険をそれほど行わないが、『メメント』(2000)はじめ、時間軸を移動させる罠だけは多用する。そのため、本作の時間軸の移動も、注目する必要がある。

 時間軸の問題を突き詰めて考えると、整合の取れる解釈はこの「現実」の第一層も基盤となる現実ではなかったというものしかない。冒頭のサイトーへのインセプションは新幹線の中で行われる。そしてその失敗の後、サイトーが主人公の救い手として、世界各国で、唐突に、都合がいいとも思えるほどに現れる。夢の中に、コブのトラウマである列車が何度も現れることを思い出して欲しい。それは、ホテルの廊下、飛行機の座席などの形で図像的に反復される。とすれば、最初の新幹線の時点で、それはコブの夢なのではないのだろうか。夢の持つ願望充足の機能が、救いをもたらす存在(サイトー)を生み出しているのだ。

 とすると、妻が「ここは現実ではない」と言って自殺したことは、実は妻の方が正しいということになる。そして、コブが思っている「現実」が「現実」ではないのなら、そして特権的な「現実」がどこにもないのなら、夢の中で暮らそうとした妻の方に理があるという可能性にまで開かれる。

 さて、基本的にはここまでが用意された読みである。このような「現実が現実ではない」あるいは「コブがいるのは全部仮想世界で仮想人格」という物語は、とてもありふれている。そのことだけで本作を評価することは出来ない。「現実が現実ではない」というハッピーエンドに対する悪意も、驚けるほどではない。むしろ、そのような「現実」と「虚構」を巡る「宙吊り」の感覚は、2010年にやる必要があるのか疑わしいとすら思われる。

 ノーランは基本的には「宙吊り」の監督である。記憶と現実、被害と加害が反転する『メメント』がそのテーマを最もよく現していた。『バットマン ビギンズ』(2005)『ダークナイト』では、正義と悪の宙吊り状態を描いた。それは図像的には、『ダークナイト』における、ジョーカーとバットマンがロープで宙吊りにされるシーンで象徴的に示されていた。

『バットマン ビギンズ』において、正義を行使しようとするバットマンに対して、執事が「trick and inception」が大事だと述べているのも本作への補助線になるだろう。『プレステージ』(2006)は、二人の奇術師を巡る、「魔法か現実かテクノロジーか」を宙吊りにする「トリック」のテーマを描いていた。そして今作は「inception」つまり、思想のコントロールの問題にチャレンジしている。

 ノーランは時代に祝福された監督である。『メメント』で描いた、過去や記憶の問題、トラウマの問題や、加害や被害の反転の問題が、その後の9・11と重なったからだ。9・11がトラウマとなって混乱したアメリカにおける「現実感」と「正義」の問題系をノーランは主題にし続ける。この両者は分かちがたく結びついているが、主にそのニ系列をノーランは描き分けている。

 テロ後のアメリカが行ったと言われている、戦争には付き物の「情報操作」や「思想コントロール」の問題もまた扱っていく。「情報」によるコントロールに覆われていく気配のアメリカの空気に呼応するかのようにフィルムに定着させていく。言葉やメディアによって世界観・現実感を構築する生き物である人間にとって、情報がコントロールされることは「現実」に自分が接していないのではないかと不安を巻き起こす。『インセプション』『プレステージ』『インソムニア』『メメント』にはその「現実」感覚の揺らぎを扱っている。

 一方、『バットマン ビギンズ』と『ダークナイト』では「現実」というテーマは出てこず、「正義」の問題に集中している。このニ作は、正義と悪を巡る、崇高な悲劇とでもいうような構成になっており、メタ要素はほとんどない。しかし、『バットマン ビギンズ』の、恐怖を増大させ、相互に人間がゾンビのように見えるというガスは、恐怖を増大させようとするメディアのメタファーだろう。このガスにカメラも影響を受けたかのように、人々はゾンビ映画の技法で描かれてしまう。

 以上確認したように、彼が祝福された、すなわち作家性と観客の志向が一致した幸福な状態にて映画制作を行うことができたのは、9・11によってである。だが、それは本来、祝福されてはいけないものである。不吉なものによって祝福されてしまったという両義性が彼には存在する。そしてその作家性の底にあるトラウマの露呈という形で「第五層」を見るならば、そこにある倒壊したビルの群は、むしろコブのトラウマというよりは、ノーラン映画の基層にあるトラウマとしての9・11の光景を描いているように見える。

 そう考えるならば、コブの悪夢的なトラウマは「列車」ではないのだ。夢や未開民族の思考は類似性の原理で働くが、外傷性神経症を負った患者もまた、似たような図像やシチュエーションにかつての記憶を甦らせて同一視して反復してしまう傾向が存在する。コブにとってのトラウマは、本当は「列車」ではなく、筒状の、窓がたくさんあるものなのだ。つまり、「飛行機」と「ビル」である。何度もそれが反復想起される。重力が狂い、回転するホテルの廊下もまたそうであろう。そこには崩壊と回転による混乱が生じている。  

 第二層で主人公たちは橋の上に宙吊りになり、そこから落下していき、水面に着地した際の衝撃で目が覚める。衝撃を受けると、一段階上の階層で目が覚めるのだ。では、飛行機に乗っている第一層が「現実」ではないと仮定するならば、そこから目が覚めてもう一段階上の階層に行くためには、その飛行機は何を行わなければいけないのか? 何かへの突入か、墜落である。

 中沢新一は、「イスラームの論理は、世界がバーチャル化していくことを許さない」と延べ、9・11の攻撃は、そのメッセージを持っていると考えた。イスラームの論理は、ロゴス=神の法と、現実そのものが一体化していて、「言葉と物」のように分割できないと考えている。ましてや実体と遊離した言葉の自己増殖を認めない。例えば、無利子銀行の「利子をとらない」点なども、この考えに由来している。さらに、イスラームは、宗教的なものの図像的提示も禁止している。基本的に、ロゴス=リアルの世界観を信じており、イメージは極端に抑圧されている。この論理からすると、映画やメタ構造などは基本的に認め難いものであろう。

 本作『インセプション』が発するメッセージである「現実の基層はない」は、このイスラームの論理に対する、映画としての反逆そのもののようである。バーチャルしかないが、その中で騙されていれば幸せだという、映画の一次的なハッピーエンドの持っているメッセージもまたその意味を持つ。

 だが、世界が全て仮想現実内の産物であり、無限の入れ子であると思いこみたい「欲望」の基層にまでこの映画は辿り着いているのだろうか。夢の割に、生真面目な形式性ばかりが目立つのは一体どういうことなのだろうか。この「夢」は、本来の人間が見る「夢」の猥雑な部分がほとんど剥奪されている。それが故に、見ていて退屈さの印象が強く残るのだ。仮に好意的に現代の人間は、無意識までコンピュータのように構造化されているという主張だと受け取っても、そのようなテーマ自体は特に新しいとも言えないし、基本的には人間が見る娯楽作品である映画としては失敗であろう。

 ノーランがこの日本語のレビューなど見ないであろうことは前提で苦言を呈するならば、ポストモダンの「底が抜けた」といわれる社会で、正統性や真理性が疑われているこの世界やメディア環境では、決定不可能性の中で宙吊りにされるなどというのは、現実の生活の常態であるに過ぎない。そこを「生活」の必然性により突破していかざるを得ないという世界を我々は生きているはずである。そのような際にこの「宙吊り」を見せられても、「それじゃなんの解決にもならないし、遅延させようとしているだけ」という印象ばかりが強く残る。無駄に長いこの上映時間の退屈に対する苛立ちは、決して倫理的な苛立ちだけではなく、この映画の生真面目な鈍感さに対する苛立ちでもあるのだ。

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